
1960昭和35年
8月
名古屋支店開設
名古屋支店は当初寒川アパートで営業を行い、昭和43年(1968年)に大橋ビルに移った。

1962昭和37年
12月
本社社屋新築移転(現在地)
昭和37年(1962)12月現在地・南青山に本社屋を新築、事業を本格化することになった。当時「青山」にふさわしいモダンな建物として、テレビドラマ「青山物語」に登場。
1964昭和39年
7月
技術部新設
昭和37年(1962)防衛庁からの修理保守契約が終結され本社内に技術部が新設された。
終戦後の日本再建に貢献するという創立者の理念のもと、貿易商社として設立された。当初は少人数で小さな事務所から始まり、創立者の人脈を活かして雑貨品や船舶、計測器など多様な輸出品を扱いながら、苦労を重ねて事業を拡大していった。

昭和23年(1948年)4月13日、創立者藤村義朗は、戦災で焼け跡の神田で露天商を開き、僅かな資金で「貿易会社ジュピターコーポレーション」を創立。
まだ、一面焼け野原であった青山の一角(現本社所在地)に、創立者夫人きみ名義で土地を入手、フジムラハウスを建設、一部で営業。


昭和37年(1962)に本社を南青山に新築し、創業期の苦労の末、発展の基盤を確立した。昭和35年に名古屋、昭和42年にロサンゼルスに支店を開設し、昭和39年には防衛庁向け業務に伴い技術部を新設。昭和34年には英国レディフォン社とフライトシミュレーター導入契約を結び、業績が向上し、昭和41年には資本金が3,600万円に増加した。

名古屋支店は当初寒川アパートで営業を行い、昭和43年(1968年)に大橋ビルに移った。

昭和37年(1962)12月現在地・南青山に本社屋を新築、事業を本格化することになった。当時「青山」にふさわしいモダンな建物として、テレビドラマ「青山物語」に登場。
昭和37年(1962)防衛庁からの修理保守契約が終結され本社内に技術部が新設された。
当社は米国の航空機関連機器メーカーとの代理店契約を積極的に進め、SAI、リー・シモンズ、ウィッタカーなど有力企業との連携を確立。シミュレーター事業も拡大し、航空会社や防衛庁との取引が順調に進展した。昭和47年(1972)には富津工場を開設し、電子工場へと発展、工場を持つ貿易商社としての基盤を築いた。米国支店は昭和46年(1971)にサンタモニカからトーランスに移転し、電気関連の輸出業務も活発に展開された。
富津工場の操業開始時期は、本社から移転の技術部の業務・機器修理が主であった。
電子工場と呼ばれるように、電子・電気・計測・制御機器の修理を扱うようになった。


防衛庁からの受注増加に伴い、昭和57年(1982)に富津工場に第二工場を新設、5年後には増設し、宇宙関連機器の取り扱いも開始。修理・製造に加え、ターニングツールなどの自社開発にも成功した。営業では航空機関連以外に医用機器などの輸入も拡大。米国CJPCは昭和55年にロミタ市へ、名古屋支店は昭和61年に名東区へ移転。昭和57年にはスリランカにランカジュピター社を設立し、イチゴ栽培事業を開始。昭和63年には本社創立40周年記念式典を廣池学園で開催した。
藤村義朗社長は、スリランカ国援助のために、イチゴ・柑橘の栽培を提案、同国の高地を利用、日米の高度技術を導入し、昭和57年(1982年)合弁会社ランカジュピターを設立


昭和天皇崩御に伴い平成に改元され、同年に藤村義朗社長が会長、油谷信俊が社長に就任。会社の発展に伴い資本金は平成3年(1991)に1億1千万円となり、平成4年(1992)には藤村薫が社長、油谷は相談役に就任した。平成6年(1994)には政府専用機用フライトシミュレーターを納入し、千歳と美保基地に事務所を開設。名古屋支店は平成4年に中区栄へ、米国支社は平成2年にアーバインへ移転。富津工場には平成5年に第三工場を増設。スリランカではジュピターカンパニーとして現地事業を継続し、平成9年(1997)には本社屋を建て替えて新たに発足した。


藤村会長は、千葉県富津市の三枝病院で平成4年(1992)3月18日、85で逝去。





納入に伴い、シミュレーター関連の保守整備も本格開始、顧客サービスに当たることになった、このため平成 6年(1994)3月千歳事務所、平成7年(1995)7月美保事務所を開設することになる。




